お久しぶりですみなさん元気でしょうか。
先日まで長い風邪症状をこじらせてました。
咽頭炎(市販薬治癒)に始まり気管支炎(抗生剤治癒)、今は副鼻腔炎(市販薬期待)の真っ只中であります。
ここ最近の宮古島は雨天と北風がひどいので体調も安定しません。
もともと冬には強い体質なのですが、なかなか完全回復しません。
ちゃんとビタミン摂ってるんですけどねぇ...うーむ...
先日、とても良い記事…という単語すら超えた記事に出会えました。
タイトルは、
「 回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか 」
です。
そしてその冒頭には次のような文章がありました。
「人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない」
…。
私は「やさしさ」は無限に湧き上がるものだと思っています。
少し脱線しますが、私が看護に至るまで私の中に何が起きているかを話します。
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私は、目の前の人の話しを聞き、尋ね、返事を聞きまた尋ねる、をしていくと、
次第に私自身の心臓付近にモヤモヤ感が生まれます。
モヤモヤ感はすぐに頭の中でおぼろげなイメージを作ります。
その人が語るその人の過去や出来事、その時々の苦労や苦難。イメージの正体です。
頭の中で生まれた(自分勝手な)その人のイメージ(ライフヒストリー)はスライドショーになり、
私は思考の中でそれを強制的に観ることになります。(この間対話は続いています)
スライドショーを観ていると今度は心臓付近を息苦しいナニカが締め付けてきます。
その締め付けてきたナニカが勝手に、目の前の人の抱える問題を緩和したり解決したり回避するための方法を
イメージにして私に教えてくれます。
そのイメージは一瞬で多岐にわたります。
多岐にわたる選択肢のイメージから一番良いと思う選択を私自身が決めることになります。
そして私は、私の中にいるナニカがイメージさせた解決策を看護(行動)することになります。
―――――――――――――――――――
これが私の頭の中で、私の看護の始まり方です。
(いつからこうなったのかはいつかまた別の機会で)
示された解決策を実際に看護(行動)すると、ほぼうまくいきます。
そして問題が解決した利用者さんや家族から言われます。
「やさしい」
本題に戻ります。
私はこうした技法をもって看護を提供しています。だから、
「やさしさ」は目の前にいる人の話しを聞くほど勝手に湧き上がるもの、つまりは、
「やさしさ」は無限のものだと思っていました。
だからその記事の
「人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない」に否定反応を示しました。
しかし読んでいく途中で著者の言わんとしている核心を知りました。
しかもそれが私自身のどこかで引っ掛かっていたモノでした。
- やさしさの偏在 -
そうなのだ。
私の「やさしさ」は目の前にいる人にしか与えられないのだ。
私の「やさしさ」の出し入れは私が決め、誰に与えるのかを決めるのも私自身なのだ。
ショックでした。
普通に考えれば気付けそうなことでした。
でも気付けませんでした。今まで気付けませんでした。
単に「私が訪問に行けばなんとかなる」「私が対応すればどうにかなる」とだけしか考えていませんでした。
やさしさは出し入れにおいても与えることにおいても
有限の中で偏っている
そうだなよ…その通りだよ
なぜか今ふと頭をマンガのワンシーンがよぎって…
たしかこれは...
「うしおととら」のワンシーン…言葉…
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憎しみや妬みなどの感情を養分として生まれ人間と妖怪を根絶やしにする大妖怪「白面の者」
白面の者を討つために時代時代に生まれた「字伏」たち、そして「とら」
最終決戦で字伏たちはとらに言う。
「獣の槍を振るい、打倒白面を目指した人間はいずれ魂を槍に削られて獣になる。
そして獣は字伏になる。
そして字伏になっても白面への憎しみが消えない我らは何になる?何になる?ヤツになるのさ!」
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とらはなぜ字伏にならなかったのか。
それは蒼月潮と一緒になれたから。
蒼月潮が引きつける人間と妖怪の陽のチカラのおかげ。
陽のチカラ
やさしさのチカラ
みんな仲良くのチカラ
人間からも妖怪からも畏れられた大妖「白面の者」も、
断末魔に放った声は「やさしさ」を求める言葉でした。
当時の私は白面の者に対して哀れを抱き号泣しながら読み切りました。
これから「やさしさの偏在」についていろいろ考えていこうと思います。
思ったまま書くといつも長くなります、すみません。
読んでくれてありがとう。